未来テクノロジー
テクノロジーが拓く、豊かな未来。挑戦し続ける人と企業をクローズアップ
木下 聡さん
TCC Media Lab株式会社 事業開発担当 株式会社菊池製作所 製品販売部部長
東京都出身。1973年東京農工大学工学部を卒業後、カシオ計算機株式会社に入社し、電子時計、医療機器の開発などに従事。2016年株式会社菊池製作所に入社。株式会社菊池ハイテクサプライ代表取締役、製品販売部長を歴任し、同社グループのロボット関連製品の市場開拓や販売を行う。現在はTCC Media Lab株式会社の事業開発を担当(兼任)。
産学連携によって誕生したベンチャー企業が目指すものは、AR(拡張現実)の活用による医療分野への貢献。その開発技術は大学の研究棟の一室から発信されることになった。TCC Media Lab株式会社は、麻酔科医の穿刺※(せんし)技術の支援を行うシステムを構築している。2022年度には製品の販売もスタートする。そのシステムの内容を中心に、どのようなねらいと思いをもって事業に取り組んでいるのか、事業開発を担当する木下さんにこれまでの取組や今後の展望をうかがった。
※薬物注入のために、体内に針を刺し入れること
新しい挑戦と福島への思いを背景に
産学連携によるベンチャー企業が誕生
そのオフィスは、見上げるばかりの木々に囲まれた大学構内の研究棟の一室にある。TCC Media Lab株式会社(以下 TCC Media Lab)は、株式会社菊池製作所(以下 菊池製作所)と国立大学法人電気通信大学が立ち上げたベンチャー企業だ。この企業がなぜ誕生したのか、まずは親会社である菊池製作所の歩みからご紹介しよう。
菊池製作所は1970年に現代表取締役社長の菊池功さんが金属加工を事業の主軸に創業。精密板金加工から金型製造、成形、鋳造、プレス、機械加工へと技術領域を広げ、顧客のニーズに応える「ものづくり」に邁進してきた。そして1990年代になり、その「ものづくり」に新たなステージを加えることになる。自社技術によるオリジナル製品の開発だ。これまで最終製品メーカーの生産を支えてきた技術の蓄積を生かし、新たに目を向けたのが「ロボット」「医療」「産業情報制御システム」。同時に、産学官連携による研究開発・事業化支援も行った。
「20年程前から大学等との共同研究・開発を進めてきました。その結果、現在47大学・研究機関と連携が進んでおり、特にサポート・サービスロボットの分野では7社のベンチャー企業が誕生しました(表)。TCC Media Labはそのなかの1社で、2017年に設立された新しい企業です」
菊池製作所の製品販売部部長で、TCC Media Labの事業開発を担当する木下さんが、TCC Media Labが設立されるまでの流れをこのように説明してくれた。
菊池製作所は国内外に15の生産拠点をもっている。そのうちの9つが福島県内にあり、多くが飯館村に、ほかに川内村、南相馬市に工場を構えている。ここに菊池社長の飯舘村に対するふるさとへの思いがあるという。
「自身の出身地である飯舘村を盛り立てたいという気持ちがあったと聞きます。それが東日本大震災以降は、福島県の復興に役立ちたいという強い思いに変わりました。2014年、福島県は経済産業省、復興庁とともに『福島イノベーション・コースト構想』を掲げ、偶然にも第7工場がある南相馬市がロボット産業の集積を目指すプロジェクトの中心地となりました。元々、南相馬工場の敷地内には、サービス・サポートロボット製造の拠点となる研究開発センターの設置が決まっていたため、このような背景も、TCC Media Labの設立を後押ししたと思います」
個人の力量に頼る「神経ブロック」の技術を
ARを導入したシステムで支援
TCC Media Labが取り組んでいるのは「医療3D-ARシステム」の開発だ。AR(拡張現実)とは、現実世界に仮想世界を重ね合わせて表示する技術のこと。3D(三次元)表現によるこの技術を、医療分野、特に穿刺技術を要する分野に導入し、医師の治療手技を支援しようというのだ。
「穿刺技術は、医師の経験や技術の熟練度に頼る時期が続いていました。現在TCC Media Labが研究開発対象としている神経ブロック※治療もそのひとつ。2000年代に入って超音波(エコー)診断機が導入され、穿刺部位は可視化されるようになりました。しかし超音波診断による画像はまだまだ鮮明ではありません。私たちは、そこにARの技術を組み合わせ、穿刺部位の画像をより具体的にリアルタイムで認識できるよう開発を進めたのです」と木下さんは説明してくれた。
※麻酔薬などで神経機能を停止させ、痛みの軽減を図る技術。神経部位に針を穿刺し薬液を注入する。
将来的には、施術を受ける患者の体表面に血管や神経などの3D画像を重ねて表示できるシステムを目指しているという。さらにその先には、人間に代わる穿刺ロボットの開発も視野に入れているようだ。
このシステムでは、超音波画像を認識し、それに重なるように静脈や動脈、神経などが色別でマーキングされる。医師はその画像を見ながら手技を実施。ガイドがあることで、治療の正確性、迅速性の向上につなげていく。
「そのためには、AIエンジンの認識精度をいかに高めるかが重要です。継続的に、認識のアルゴリズム(処理手順)の改良と、大学病院等の協力を得て学習用エコー画像の収集を進めており、AIが学習できるデータの量が増えれば増えるほど、認識の精度は高まります。人間の身体はどれ1つとして同じものはありません。可能な限りその個別性に近づけるような認識を目指しています」
2022年度に新たなステップへ
「US-Training for iPad」を発売
企業設立から5年を迎え、医療3D-ARシステムはいよいよ事業化に向けて動き出した。2022年度に製品第1号として「US-Training for iPad」(超音波ガイド下神経ブロックトレーニングアプリ iPad用)の発売が決定。まずは、教育用トレーニングアプリを提供し、穿刺経験の少ない医師や研修医、そして学生のスキルアップに役立ててもらうことにしたのだ。
超音波画像の正確な識別には、プローブ(超音波診断機の測定器)で画像を的確に描出することが必要だ。そのために求められるのが、超音波診断機特有の画像を覚えること。このアプリでは、iPad上の超音波画像に神経と血管をマーキングしながら、クイズ感覚で画像を記憶する能力を身につけることを目指す。神経ブロックは適応疾患によりさまざまな部位に行われるが、このトレーニングアプリは5つの部位で構成されている。年度末までに20部位へと増やしていく予定だ。
「これと同時に、超音波診断機にAIエンジンを接続して使用する『US-AI Training』も製品化します。こちらはアプリから一歩進んで、医療機関内で麻酔科医がトレーニングに活用するもの。よりリアルに近づくことになります。そしてやがては、臨床での治療を実際にサポートする3D-AR表示によるシステムの発売へ。その際にはHMD(ヘッドマウントディスプレイ)により、穿刺部位上で超音波画像とガイド表示が確認できるようにすることを想定しています」
木下さんのその言葉は力強く、今後の展開への期待と自信が垣間見える。
AIや3D-ARといった技術は日常のさまざまな場面で活用されるようになり、すっかりお馴染みだろう。特にAIは医療分野でもその導入が進んでいる。しかし、それらが治療技術のサポートに活用されている例はまだ多いとはいえない。
「わが国の医師不足は未だ解決できていない問題です。そんな中、私たちの事業を医師の育成、治療技術の向上、医療事故予防につなげたいなどというのは、少しおこがましいかもしれませんが、たとえ微力であっても医療分野に貢献していけたらいい。そのためにも、今後は現状に留まらず、医療3D-ARシステム活用の分野や用途を広げていく方向で考えていきたいと思っています」と語る木下さん。
真の創造、真の理解(True Creativity and Communication)をキーワードに、医療とAR技術の融合を目指すTCC Media Lab。その先には限りない可能性が広がっている。
TCC Media Lab株式会社
2017年、株式会社菊池製作所と国立大学法人電気通信大学との産学連携により設立。「医療に新しい未来を起こす」という志をもって「医療3D-ARシステム」の研究開発に取り組む。中心静脈穿刺、神経ブロックと、穿刺技術の支援システムを構築している。2022年度には製品化第1号として「US-Training for iPad」(超音波ガイド下神経ブロックトレーニングアプリ iPad用)を発売。「US-AI Training」も発売予定。現在は大学内のオフィスでの研究開発が中心だが、2020年度に製品の生産が始まると、量産体制の設計や生産ラインの構築など福島県南相馬市の開発研究センターでの業務もスタートすることになる。